FAZER LOGIN土曜日の朝は、平日の朝より静かなはずだった。
少なくとも、世間一般ではそうらしい。 学校へ行く必要のない日。制服に袖を通す義務もなく、教科書の重さもなく、教室の空気もない。だから本来なら、もう少し穏やかな顔で目を覚ましていい。 なのに久瀬湊人は、平日より早く、しかもかなりはっきりと目を覚ましていた。 枕元のスマホを見る。 時刻は八時前。 集合は十二時、駅前。 時間だけ見れば余裕はある。 だが、その余裕の中には、いつものように別の時間が重なっていた。 十五時から事務所の打ち合わせ。 その前に帰宅。 機材確認。 資料の再チェック。 音声環境の確認。 そして、できれば服装も“学校の自分”から“配信側の自分”へ切り替えたい。 やることを順に頭の中へ並べていくと、それだけで胸の奥が少しだけ詰まる。 でも今日は、それ以上に妙な感情があった。放課後の教室には、独特のざわめきがあった。 六限目が終わった直後の、まだ誰も完全には帰り支度へ切り替わっていない時間。 机を引く音、鞄のファスナーを開ける音、廊下から聞こえる別クラスの笑い声。そこへ、今日の打ち上げという少し浮いた予定が混ざって、空気全体がいつもより落ち着かない。 その中で、久瀬湊人は立ち上がったまま動けずにいた。 スマホの画面には、さっき届いた通知がまだ残っている。 AstraLink管理:夕方の回線確認、十七時開始に前倒し。参加必須。 相馬:本日、直行の可能性が高まりました。十七時十五分以降、即応できるように。 AstraLinkだけなら、まだ可能性はあった。 最速で確認だけ終わらせて、どこかで抜けて、途中合流できるかもしれない。 でも家側まで重なると無理だ。 十七時開始の確認を終えたあと、十七時十五分以降に即応。 そこから十八時集合の打ち上げへ普通に行く未来を、どう計算しても現実的には作れない。 つまり。 もうかなり、高い確率で無理だ。 それを言わなければならない。 今ここで。 窓際の四人へ。「……今日は」 さっき口にしたその続きが、喉の奥で重い。「厳しいかもしれません」 言い切る。 言い切った瞬間、教室のこの一角だけ空気の温度が少しだけ落ちた気がした。 日野が最初に反応する。「あー……」 短い声。 軽く受け止めようとしてくれているのは分かる。 でも、完全に軽くもできない声音だった。 すばるはほんの少しだけ目を見開き、それからすぐに笑おうとした。「まだ“かも”なんだ」 言い方は明るい。 でも、その奥にある揺れはかなり見える。 真白は席に座った
金曜日の朝は、少しだけ世界が軽い。 そう思っていた時期が、たしかに久瀬湊人にもあった。 週末が近いというだけで、教室の空気は緩む。 授業もどこか浮つく。 放課後の予定がある日ならなおさらで、人は朝から少しだけ明るい顔をする。 普通の高校生なら、たぶん今日はそういう日だ。 文化祭打ち上げの日。 夕方十八時集合。 店も決まり、人数もほぼ固まり、クラスのグループには昨夜のうちから「楽しみ」「何頼む?」みたいな軽いやりとりが続いていた。 そして、久瀬湊人も本当なら、そういう軽さの側にいたかった。 行けるなら行きたい、ではない。 もうかなり本気で、普通に行きたいと思っている。 日野の気楽な笑いの中に混ざって、 すばるの大げさなテンションに少し呆れて、 真白の刺すような言い方にいつも通り返して、 紬希の静かな笑いを近くで見ながら、 文化祭のあとを普通に締めくくる。 そういう金曜の放課後へ、今日はちゃんと行きたかった。 でも、朝の時点でスマホの画面には、別の金曜も並んでいる。 家側管理室。 AstraLinkマネージャー。 どちらもまだ“確定ではない”という顔で、しかし確実にこちらの時間へ食い込んでくる通知ばかりだ。 金曜夜、予備待機の可能性。 家側から追加確認が入る場合あり。 夕方以降の移動を空けておいてほしい。 こういう時の“可能性”が、どれだけ厄介かは嫌というほど知っている。 確定ではないから先に断言もできず、 でも軽く考えていると、あとで一気に崩れる。「……最悪だな」 家を出る前、玄関で靴を履きながら小さく呟いた。 金曜の軽さは、湊人のところには最初からほとんど届いていなか
鳴海すばるは、期待しすぎないようにしようと決めるのが、わりと下手だ。 もっと正確に言うなら、決めること自体はできる。 でも、その決意を守りきるのがあまり上手くない。 明日の金曜打ち上げについても、そうだった。 期待しない。 来られたらラッキーくらいに思う。 来られなくても仕方ない。 最近はいろいろあるっぽいし、そこを無理に明るく踏みにじるのは違う。 そこまではわかる。 頭ではかなりわかる。 でも、心とオタクの神経が、そういう賢い距離感を守ってくれない。 久瀬湊人が「行くつもりでいます」と言った声とか、 文化祭の日に聞いてしまった数秒の温度とか、 “ちゃんと来たいのに、来られるか分からない人”の気配とか。 そういうものを一度拾ってしまったあとでは、 “別に期待してませんけど?”みたいな顔をするのは、かなり難しい。「……いや、しないけど」 朝、自室の鏡の前で前髪を軽く整えながら、すばるは小さく呟いた。「しないけど、来たらうれしいのはしょうがなくない?」 誰に向けた言い訳かは、自分でもよくわからない。 でも、それくらいにはもう、明日のことを意識してしまっていた。 ◇ 教室へ入ると、文化祭明けと打ち上げ前が混ざった独特の浮つきが、まだそこにあった。 日野が前の席でスマホを見ながら「級長、まだ店の最終返事来てないっぽい」と言っている。 真白は「朝からその話しかしないの」と呆れているが、完全に無関心という顔でもない。 紬希は少し静かで、でも今日は昨日より表情がやわらかい。 そして、久瀬もいる。 いる。 それだけで少しだけ安心してしまう自分が、すばるはやっぱり面倒だった。「
倉科紬希は、自分が言葉を飲み込む方の人間だとよく知っている。 言えないわけじゃない。 ただ、言う前に考えてしまう。 これを言ったら相手は困るかな、とか。 今ここで言うほどのことかな、とか。 言わない方が空気がきれいに流れるなら、その方がいいかもしれない、とか。 そうやって選んでいるうちに、言葉は少しずつ自分の中へ沈んでいく。 そのやり方で、今まで困ったことはそこまで多くなかった。 少なくとも、自分一人が少し我慢すれば済む話なら、それで十分だった。 でも最近は、その“飲み込む”が少しだけ苦しい。 理由はわかっている。 久瀬湊人に対してだけ、言いたい言葉が前より増えているからだ。 来てほしい。 一緒にいてほしい。 打ち上げにも、普通に、ちゃんと。 でも、それをそのまま言ってしまったら、この人はたぶん困る。 困るどころか、自分の事情とこっちの期待を天秤にかけて、余計に苦しい顔をする。 だから言えない。 言えないまま、待つことになる。 その静かな待ち方が、思っていたよりずっと恋に近いのかもしれない――と、最近の紬希は感じ始めていた。 ◇ 金曜の打ち上げが近づいた木曜の朝、教室の空気は少しだけ落ち着かなかった。 文化祭の余韻そのものは薄れてきている。 でも“明日、ちょっと集まる”というだけで、高校生の教室は簡単に浮つく。「だから店はもうここでよくない?」 すばるが朝からスマホを見せている。「近いし、安いし、なんか無難に楽しそう」「“なんか”で決めないで」 真白が言う。「しかも安さと楽しさを同列に語るの雑」「だって大事じゃん」「それはそう」
御門朱莉は、楽しそうな空気の中心にいる人間より、その少し外側にいる人間を見る方が好きだった。 輪の真ん中で笑っている人間は、だいたい分かりやすい。 今が楽しいとか、注目されたいとか、自分の言葉がどれくらい届いているかとか、そういうものが表へ出やすい。 でも、輪の外側一歩分の位置にいる人間は違う。 自分から前へは出ない。 なのに、その場へ混ざっていたい気持ちだけは、ふとした瞬間に顔へ出る。 しかも本人は、それを隠せているつもりだったりする。 そういう人間の方が、見ていてずっと面白い。 だから金曜の打ち上げがほぼ決まり、クラスの空気が少し浮つき始めた頃から、朱莉は二年三組の前を通るたび、ほんの少しだけ意識していた。 久瀬湊人が、その空気の中でどんな顔をしているかを。 ◇ 昼休みの終わり際、教室の前を通ると、ちょうど扉が半分開いていた。 中ではいつもの窓際の一角に、あの面々が集まっている。 日野がスマホを見せながら何か笑っている。 鳴海すばるが大げさに反応し、柊坂真白がそれを冷静に切る。 倉科紬希は少し控えめに笑っていて、その笑い方が前よりずっと自然だ。 そして、その少し外側に久瀬湊人がいた。 相変わらず、自分から真ん中に出る感じではない。 でも、完全に外から見ているわけでもない。 輪の中へちゃんと気持ちは入っているのに、立ち位置だけが半歩引いている。 その半歩分の距離が、朱莉には前よりずっと面白く見えた。「……へえ」 小さく呟く。 少し前まで、あの男は学校を“うまくやり過ごす場所”として扱っているように見えた。 目立ちたくない。 深入りしたくない。 でも、最低限は整えておきたい。 そんな感じだ。
金曜日が近づくほど、教室の空気は少しずつ浮いていった。 文化祭そのものはもう終わっている。 装飾も外され、段ボールも片づき、教室の見た目だけならすっかり元通りだ。なのに人の会話だけがまだ完全には日常へ戻らない。 文化祭どうだったとか、 あの時の写真がどうとか、 どのクラスの展示がよかったとか、 打ち上げの店どうするとか。 そういう話題が、朝にも昼にも、放課後前にも自然と混ざる。 そしてそのたび、久瀬湊人の胸の奥には、あの薄い棘がまた少しだけ動いた。 金曜の夕方。 打ち上げ仮決定。 でも家側からは、金曜夜についても予備待機の可能性ありという連絡が来ている。 まだ確定ではない。 それがいちばん厄介だった。 来られるかもしれない。 でも来られないかもしれない。 この“かもしれない”が、最近の自分と窓際の空気の相性をどんどん悪くしている気がする。 来たい、とは本当に思っている。 思っているから、曖昧に濁すたび自分の方が削られる。「……向いてないな」 朝、駅から学校へ向かう道の途中で、湊人は小さく呟いた。 文化祭準備もそうだったが、こういう“みんなで何かをする予定”は、秘密を抱えた人間にあまり向いていない。 しかも今の自分は、その予定に混ざりたいと本気で思ってしまっている。 そこが一番まずい。 ◇ 教室へ入ると、いつもの窓際の空気はすでに半分できていた。 日野が前の席からだらっと振り返り、 すばるが「今日こそ級長に店の候補聞く」と息巻き、 真白が「朝からうるさい」と刺し、 紬希がその







